3台目の思い出バイクは、スズキRG50Eっていう2スト5段変速のとっても速いやつでした。
貧乏学生だったので毎月5,000円ずつ返済する約束で、下宿から30Kmほど離れた鎌倉市のバイク屋さんに通うのが月1の習慣でありましたので値段を覚えているのですが、当時の価格は確か158,000円だったと思います。
ピッカピカの新車で、入手した時はもう嬉しくて嬉しくて、高3の冬、半日5,000円で潰えたRD50の仇はこいつで討ってやるぜってなもんでした。
おかげで毎月通った鎌倉は、42年経った今でも大変懐かしい場所となっています。
後輪ブレーキはドラム式、前輪ブレーキがディスク式になっており、アルミホイールを履いたタイヤがちょっと嬉しい、後に一世を風靡することとなるΓ(ガンマ)って呼ばれるタイプが世に出る直前のやつだったように記憶しています。
時は産業革命前夜のごとし
パッソルの自動遠心クラッチのおかけで、「世界中のどこへでもスロットル一捻りで行ける!」気になっていたタンフーでしたが、本当にバイクでどこへでも行けると確信できるようになったのは、このRG50Eに跨り始めてからのことでした。
当時の2スト原付のパワーは確か10馬力くらいだったでしょうか、それは現代の原付の比ではないほどパワフルだったように思います。
ガソリンを専用のエンジンオイルと一緒に燃やす仕組みですから、青白く油臭い煙が、2スト特有の甲高い回転音とともに周囲に迷惑(?)をかけつつ疾走するって感じです。
当時の一般道におけるスピード違反の赤切符は、25Km/h超過から切られる仕組みでした。
原付の最高法定速度は30km/hと現代と同じでしたから、何とかネズミ捕りのお世話にならないよう、例え万が一お世話になるとしても最高速度を〇〇km/h以下に抑えることで、前科者の汚名だけは被らないように腐心したものでした。
なんなら土下座してでも切符には24km/h以下と記入してもらうつもりでした。
また、信号待ちから青でスタートする際、ちょっと高回転になったエンジンに比してクラッチミートが早過ぎたりすると軽々とウイリー発進したりして、隣に停止中の運転手さんや自分自身をも驚かせたりするものですから、スロットル一捻りで世界のどこへでも行けるような気になったのもごくごく自然のことだと思います。
1981年7月の下旬、夏真っ盛りのある日の夕方、手始めに実行したのは、神奈川県にある下宿から四国松山の実家まで、延々と一般道路を走る約1、000kmの旅です。
その全般行動計画は実に単純明快でした。
「下宿~国道1号線~国道2号線~宇高連絡船~国道11号線を経由して実家への帰省を果たす。」ただそれだけでした。
行程表はおろか、地図すら持っていなかった、即ち細部計画などなく、いきなり下宿からエンジンかけて走り出したことを記憶しています。
この経路を使えば、必ず四国に到達するっていう絶対的な地理的確信、それと、日本製品はとても優秀で決して壊れたりしないという機械に対する「JAPAN as No.1」的な信頼感、ただそれだけあれば走り出す動機として十分だったんです。
若気の至りといいますか、そういったちょっと無謀ともいえる行動が、とてつもなく楽しく思えた時期でした。
現代であれば、スマホのGoogleMapにちょいちょいと目的地を音声入力して検索し、ブルートゥースのインカムをメットに装着し、今日の宿はここにしようってことでネット予約したホテル目指して気楽に行動できるのでしょう。
冒険心をはぐぐむには、最新の環境は親切過ぎるのかもしれません。
時は今を遡ること42年、学校のコンピューターをちょこっと動かすだけなのに、何十枚もの専用カードに穴をパンチしてプログラムを入力していた時代です。
当時、確か2年上の先輩が、AppleⅡなるPCを大枚はたいて購入し、画面上で光点が動くのを笑顔で説明していたのを覚えています。
カセットテープのウォークマン全盛期で、ポパイっていうトレンド雑誌の記事が、田舎者のタンフーには眩しく思えた記憶までおまけで付いてきます。
ウインドウズもスマートフォンもipadも、いや携帯電話やデジカメすら未だ登場していない、基本まだまだアナログな時代でした。
こち亀、あられちゃんは少年誌に連載されていました。
これからのワープロ機材のあるべき姿は「ワープロ専用機なのか、それともワープロのソフトウエアを搭載したコンピューターなのか」なんていう真面目な討論企画が雑誌に組まれたりもしていました。
19世紀の産業革命前夜、色んな技術が爆発的に開花する寸前の、あたかも水が沸騰する直前に急激にぐらぐらと泡立つ雰囲気といったようなイメージです。
そういった中、なんとか国道1号線に進入して一路ひたすら西進を始めたんです。
ムシムシとした曇天夕方5時頃のことでした。
箱根を一挙に越えて、疲れが・・・原付雨中ハイ
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」などど呟きながら、箱根駅伝コースのくねくね道を一挙に越えて三島市の明かりを見ながら下りに入った頃、1号線上で大粒の雨が降り始めました。
エンジンオイルと一緒にバックパックに詰め込んでいた雨合羽を道端で取り出して急いで着込み、先を急いだのを覚えています。
すでに全身は雨でぐっちゃぐちゃになっていた上に、真夏とはいえ豪雨の夜の体感温度は、ガチガチと芯から震えるほどの寒さでありました。
疲れた・・・・豪雨の中、時に原付走行禁止の自動車専用道路に係の方の誤解もあって迷いこんだりしながら、あるいは大型トラックが追い越していく際の猛烈な水しぶきを思いっきり右から浴びつつ、フルフェイスの中の眼鏡に張り付くぎらついた水滴を指で拭き取りながら、ひたすら1号線の標識を頼りに西に向かって走り続けたんです。
父親から五右衛門風呂で刷り込まれた「駅馬車」テーマソングを脳内BGMに、小学生の頃に映画館で観た「イージーライダー」や、チャリツー高校生の土曜昼下がり帰宅時に観た「マッドマックス」のちょっといかれた欧米文化の記憶が、走っているうちに徐々に前頭葉から滲み出でて、体の疲れを麻痺させる「原付雨中ハイ」状態に入っていたのだと確信しています。
愛知に入ったのだ・・・爆睡
東西に長い長い静岡県を通過し、半ば朦朧としながら愛知県に入ったのは、朝の4時頃だったと思います。
さすがに疲労と眠気はピークに達し、どこか横になれる場所はないかと思っているところで目に入ったのは、大きな交差点の下に掘られた歩行者・自転車専用の地下道でした。
下車して吸い込まれるように地下道に入ると、ほわぁっとあったかいんです。
周囲を見渡すと段ボールが数枚落ちていました。
「やるか、、、」力なく呟きながら、段ボールで身の上下を挟むと、瞬間、深い眠りに落ちたのでした。
「その3-2」へ続く・・・
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